~私だけの死刑廃止論~

最高裁の論理構成への批判とともに

「良き法律家、悪しき隣人」と言われる。
法律家とは話が通じない、と感じている人も多いであろう。

わが国の最高裁判所は、今でも、死刑制度を合憲としているのであるが、その論旨は、矛盾だらけである(最大判S23.3.12刑集2-3-191)。

最高裁は、まず、次のように論じている。
「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。」

そのまま信じれば、「一人の生命>全地球」となるが、いかにも情緒的である。
比較できないものを比較しているから。
百歩譲って比較可能だとすれば、いかなる死刑廃止論者であっても、全地球を救うために一人の生命を犠牲にすることは許すであろう。

最高裁の論旨

最高裁の論旨は、次のように急展開する。
「個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられる。」

ここでは、「個体に対する人道観<全体に対する人道観」という数式になる。
しかし、人権保障は、個体に対する保障であり、多数決原理にはなじまない。このことに論理的争いはない。

最高裁による論理のすり替えは続く。
「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに憲法第36条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。」「将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第36条に違反するものというべきである。」

そのまま読めば、「殺してもよいが、殺し方や死体処理には気をつけよう」ということになる。

「人(裁判官・裁判員)が、人(被告人)を、殺してよいのか」、これが最高裁に与えられた命題である。
いかなる理由であれ、いかなる手順であれ、「人が人を殺すことは許されない」と考えれば、「裁判官・裁判員が被告人を殺すべし」という刑罰は「残虐」であろう。


以上の記述と矛盾するようであるが、私には、憲法が死刑を禁じているとは読めない。
理由は、長くなりすぎるので、ここでは割愛する。
私も、やはり、「悪しき隣人」なのかもしれない。

死刑は違憲ではないが、法律で、死刑を廃止すべきであると考えている。
立法政策として、死刑よりも、上限のない有期懲役刑や仮釈放のない終身刑のほうが、はるかに優れていると信じるからである。

死刑によって人を殺した場合、死者が増えるだけであり、誰かが蘇るわけではない。
すなわち、失うものがあるだけで、得られるものはない。
それどころか、死刑判決を下した裁判官や裁判員には「人を殺してしまった」という殺人者としての罪悪感が残るのであるから、心身とも健康な人々を減少させ、守秘義務により(誰にも相談できないことによる)無用な苦痛を永続化させる結果となり、失うものが大きすぎる。

失うもの

失うものは、まだまだ盛りだくさん!

死刑によって殺されてしまった人は、もはや無実を証明することができない。
死刑によって殺されてしまった人は、もはや改悛し謝罪することができない。

死刑によって殺してしまうと、国家や国民は事件を忘却するので、同種犯罪の再発を防止するための努力をしなくなる。
その結果、同種犯罪が繰り返されることとなる。

死刑は、罪の重さを数値化できない。
たとえば、1万人を殺害した者と一人を殺害した者とでは、量刑上の評価が異なってよいはずである。
また、同じ事件であっても、主犯と道具的に扱われた共犯とでは、量刑上の評価が異なってよいはずである。Aは懲役1,000年、Bは懲役100年といった具合に。

死刑を求刑する前に検事を辞め、弁護士に転身

個人的な感情として述べれば、殺される立場になってもよいが、殺す立場にはなりたくない。
私は、死刑を求刑する前に検事を辞め、弁護士に転身して、よかったと思っている。
また、殺される人を助けられない苦しみを味わう弁護士という職業を辞めたことも、よかったと思っている。
法曹経験者であるから、裁判員に選任されることもない。
こうして、殺す立場になることを強要されないのは、とても幸せなことである。
(元弁護士)行政書士 大久保宏明